光触寺の本堂に祀られている本尊は、運慶作と伝えられる像高1mに満たない程度の頰焼(ほおや)け阿弥陀である。
全身にほどこされた金箔がところどころ黒ずんでしまっているが、この阿弥陀像の左の頰には、奇妙な火傷のあとが残されている。
その奇妙な火傷のあとを左の頰に持つ光触寺本尊の頰焼け阿弥陀には、不思議な伝説が語り継がれている。
建保三年(1215年)、京都の仏師として名高かった運慶が鎌倉を訪れたとき、町の局という女性に、阿弥陀三尊像をつくってほしいと頼まれた。
み仏の助けを求めて南無阿弥陀仏を何度も唱え、絶叫する万歳法師であったが、源二郎という家人のものによって、とうとう焼き印が押されてしまった。
あまりの熱さに、庭をのたうちまわる万歳法師を見て、家人たちは、笑いながらこう言った。
「お前みたいなコソ泥野郎を、み仏さまが助けるはずないだろ」
しかし、翌日になって万歳法師の左頰を見た家人の源二郎は、早朝であるにもかかわらず、驚きのあまり、騒ぎ出した。
なぜなら、昨日押したはずの焼き印の跡が、万歳法師の左頰に見られなかったからである。
その後、精魂込めて運慶がつくりあげた阿弥陀三尊像を受け取った町の局は、それを自分の屋敷に祀り、家人たちとともに毎日熱心に手を合わせた。
しかし、忙しく毎日が過ぎていく中で、町の局はもちろんのこと、家人の者たちのほとんどが、次第に阿弥陀に対する信仰を怠るようになり、屋敷内で阿弥陀の存在は亡心れられようとしていた。
そんなある日のこと、少々盗み癖があるといって家人たちの中でも嫌われていた万(まん)歳(ざい)法師という僧が、また物を盗んだということで捕らえられた。
そのことを知った町の局は、その罰として万歳法師の左頰に、火で熱した轡で焼き印を押すようにと、家人たちに命じるのであった。
確かに万歳法師は、ときとして他人の物を盗むことはあった。
しかし、その一方で、屋敷内ではもっとも阿弥陀に対する信仰心の厚い男で、普段から「南無阿弥陀仏」を何度も唱えていた。
町の局によって出された残酷な命令に従う家人たちは、多数で万歳法師を押さえつけ、あまりの高温で真つ赤になった鉄の轡を左の頰に近づけた。
昨日、町の局より懲罰をおこなうようにと命じられていた源二郎は、外出している主人が帰ってくる前にとあたふたしながら、暴れる万歳法師を押さえつけ、再び左頰に焼き印を押した。
夜になって外出先から帰宅してきた町の局は、源二郎から万歳法師の火傷のことについては何も知らされずに、その日は疲れたといって、すぐに寝床についてしまった。
すると、町の局は奇妙な夢を見た。
夢の中に左頰を押さえた阿弥陀如来があらわれて、何度も町の局にこう言うのであった。
「なぜに汝は、何度も私の左頰に火印を押すのだ」
阿弥陀如来によって繰り返される、どことなく怒りと憎しみが込められたようなその言葉にうなされて目が覚めた町の局は、運慶に制作してもらった阿弥陀像のことを思い出し、慌てて阿弥陀像のもとへと向かった。
すると、その阿弥陀像の左頰には、黒く焼けこげた火印のあとが残されていたのだった。そのことに驚愕した町の局は、万歳法師を呼び出したが、不思議なことに万歳の左頰には、焼き印のあとはおろか、傷あとひとつ残っていなかったのである。
「普段からみ仏を厚く信仰していた万歳法師の身代わりとなって、阿弥陀像さまが火傷を受けられた」
このうわさは一気に町中に広まり、町の局の屋敷にはその阿弥陀を拝もうという人たちが押し寄せてきた。
それを見た町の局は、普段から阿弥陀に対する信仰を怠っていた自分を恥じらい、 もっと広く、多くの人たちのためにと、比企ヶ谷に岩蔵寺という寺院を建立し、運慶作の頰焼け阿弥陀に加えて、観音菩薩、勢(せい)至(し)菩薩の三像を祀った。
その岩蔵寺から光触寺に阿弥陀が移されたのは、いつのことだかわからない。
頰焼け阿弥陀に残されている不思議な伝説は、盗み癖があり、嫌われ者であった万歳法師のような人間であっても、熱心に信仰していれば、み仏さまは救ってくださるという教えを、現代に伝えている。
光触寺には、このような伝説を残す頰焼け阿弥陀のほかにも、塩(しお)嘗(なめ)地蔵が安置されている。
塩嘗地蔵は、物資などを運搬するための経済ルートとして栄えたかつての金沢街道が、
いかに多くの塩商人が往き来する道であったかを物語るものである。
その石造の塩嘗地蔵は、かなり風化が進んでいることから見ても、その年代の古さを計り知ることができる。
現在は、光触寺境内に存在するお堂に祀られている塩嘗地蔵だが、かつては金沢街道沿いの光触地橋のたもとにあった地蔵堂に祀られていたようで、古くから金沢街道を通る多くの塩商人たちから信仰を集めてしたという。
『鎌倉志』という書物には、この塩嘗地蔵という名の由来についての記述が見られる。
それによれば、昔、塩売りが鎌倉へ来る度にこの地蔵に塩を供えていたので、塩嘗地蔵となったとあるが、異説も記されている。
それは、昔、この石造の地蔵は光を放っていたが、あるとき、塩売りがこの地蔵を地に押し倒し、塩を嘗めさせて以来、二度と光を放たなくなったことから、塩嘗地蔵と名付けられたという。
このように、昔は光を放っていたという摩訶不思議な伝説を残す塩嘗地蔵だが、現在では光を放つこともなく、光触寺のお堂の中に安置されている。
「古都鎌倉 ミステリー旅」(吉田憲右著)より