上行寺(日蓮宗)
鎌倉市大町2-8-17 標高 8.7m
日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人が1313年に開山した寺院。すべての病(特に癌)ご利益があるとされる瘡守稲荷(かさもりいなり)と、身がわり鬼子母神が祀られている。
境内には、桜田門外の変で井伊直弼を襲撃した水戸浪士広木松之助の墓もあります。1860年 桜田門外で井伊直弼を襲った水戸浪士のひとり広木松之介が捕縛を逃れ、北陸、越後をへて上行寺にいたり、襲撃3年目に自刃したとか。
境内:無料
山門の裏側には左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝わる竜の彫り物があり、山門の正面に本堂があります。江戸時代後期の熊本の大名細川家(ほそかわけ)が造ったといわれる本堂の軒の表欄間(おもてらんま)や前の柱との梁(はり)などに、すばらしい竜の彫り物があります。
上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。
本尊は三宝本尊(さんぽうほんぞう)(祖師(そし))で、本堂内正面には日蓮上人像(にちれんしょうにんぞう)、左手に開山の日範上人像や鬼子母神像(きしぼじんぞう)、亀に乗った水天像などが安置されています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
山門の裏側には左甚五郎作と伝わる竜の彫り物があります。
妙法寺の法華堂を移築したとされている。
左甚五郎の「左」は、左利きであったことによる渾名(あだな)と見られており、江戸時代の人々は、甚五郎を左利きと見なしていたようです。
黒川道祐の『遠碧軒記』(1675)に「左の甚五郎と云もの、栄徳が弟子にて、細工を上手にす。(中略)左の手にて細工を上手にしたるものなり」と。
鬼子母神は、サンスクリット語名のハーリティを音写して訶梨帝母とも呼びます。もとは、ガンダーラ国のパーンチカ(般闇迦夜叉(はんじゃかやしゃ))という鬼神の妻でした。夫妻には五百人の子がいたそうです。鬼子母神は他人の子を奪ってきては食べるという悪行を繰り返していました。困った人々が釈迦に窮状を訴えたところ、釈迦は末っ子を隠してしまいます。鬼子母神は狂ったように捜しましたが見つかりません。悲嘆に暮れていると釈迦が現れ、「五百人のなかのひとりを失っただけで苦しいのだから、
本堂右手には、すべての病気を治すとい瘡守稲荷(かさもりいなり)をまつる稲荷堂と大小の鬼子母神をまつる浄行堂(じょうぎょうどう)があります。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
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福をもたらすとされいる七福神、神様たちの表情が豊かす。 自然と笑顔になりますね。
七福神のうち、何と6人は外国出身です。釣り竿を持ち、鯛を抱えた恵比寿様だけが、唯一の日本発祥の神様です。むかしは移民にはおおらかでした。
食べられた子の親はどれほど悲しかったか」と諭し、子を返しました。その後、鬼子母神は仏教に帰依し、善神となったのです。いまは子を護る神として、子どもに囲まれた天女で表されます。
(「イラストでわかる 日本の仏さま」日本の仏研究会より)
七福神とは、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人、布袋です。室町時代に広まり、江戸時代に信仰が盛り上がりました。一月二日の夜に、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に敷いて寝ると縁起がよいといわれます。