信州松本の浪士、遠藤左近某がこの地に住み、相模川で観音菩薩を得た。無量光寺八代・他阿良光の許で出家し、珠阿弥観心と称し1361年開山したという。すぐ西にある本寺無量光寺が兼務している。
相模線原当麻駅前である。時宗、音声山。本尊観音で、武相観音三一番所札所。時宗の寺というよりも観音堂である。この観音は当地の松本氏と関わる。祖の景宗は南朝の滝口の武士だったが、信州松本を経て当地に遍歴、当麻山七世の真空に出会って帰依し、この地に止った。その景宗が相模川から引き揚げたものと伝えられる。11代の景高は北条氏照に仕えたが、八王子城落城後は当地に戻り、観心という僧に観音堂を守らせたという。当時の堂はまだ崖下(連田)にあったが、12代景仁の慶長19年(1614)、集落が崖上の原当麻に移住したので堂も現在地に移された。この集落移住は、落合三河が関山隼人との市場争いに敗れての結果であるから、観音堂はこの集落の転変をずっと見守ってきたということになる。
観心寺本尊由来
ある晩相模川に釣舟をうかべていると、川上に金色の光を認めた。怪しんで舟を近寄せ水中を見ると、光り物が浮いたり沈んだりしている。網をおろして静かに引き上げると、一寸八分の観音菩薩の尊像であった。景宗は驚きかつ喜んで、これを奉じて急いで家に帰り、真空上人に相談の結果、家を改造してお堂とし、上人の戒を受けて勤行怠ることがなかった。
その後十二代景高は中島民部の推挙により八王子城主北条氏照に仕えたが、天正十八年(1590)落城後は、ふたたびこの地に帰り、
観心法師を住持として観音さまを守らせた。その子景仁の時、慶長十九年(1614)現在の原当麻の地域を開拓して、いままで浅間神社の崖下の連田と称する地点に居住していた人々とともに、ここに移り住み、観音堂も一緒にお移し申した。現在の観心寺がすなわちそれで、
ご本尊は内陣の奥深く鎮座し諸人の渇仰を集めている。縁日は毎年十月の九の日(はつ九日・中の九日・しまい九日)である。
(「相模原民話伝説集」より)